大徳寺の山門(三門)は、東福寺に次いで二番目に古いといわれています。

その名も「金毛閣」。
応仁の乱で焼け落ちてしまったため、現在の門はその後に再建されたものです。

一般的に建造物は一度にまとめて作られるものだと思いますが、金毛閣の場合は上層と下層で別々に作られています。
1529年に下層を連歌師宗長が寄進。
60年後の1589年に、今度は上層を千利休が寄進し増築。
楼上には同じく利休が寄進した、釈迦如来像などが安置されているそうです。
「金毛閣」と名付けたのは利休なんだとか。

山門の完成後、恩を感じた大徳寺は二階部分に雪駄履きの利休像を安置します。
しかしながら豊臣秀吉は、これでは金毛閣を通る際には利休に踏みつけにされることになると激怒。
一般的にはそのことが利休の切腹に繋がったとされており、かなり有名な話でもありますが、実際のところはどうなのでしょう?
方広寺の鐘名事件と同じで、かなり難癖感がありますね。
秀吉公はそれ以前から利休の存在が疎ましくなっており、彼を処罰する理由を探していたとも言われているので、ここぞとばかりにこの件を利用したように思えてなりません。

今まで知らなかったのですが、瓦部分に金毛閣の「金」の文字が刻まれていることに、去年の経蔵特別公開の際に気が付きました。

経蔵特別公開の際には、初めて山門の下をくぐらせていただくことができました。
普段は楼上に入ることはできませんが、会員制の特別公開の機会もたまにあるようなので、そちらでいつかお邪魔したいと思っています。
\いつも応援ありがとうございます!/