立華の京都探訪帖

1200年の都を歴史・文化的視点から楽しむ旅記録 ᝰ✍︎꙳⋆

暗殺理由は開国派に転じたこと?過激派公家の姉小路公知が暗殺された猿ヶ辻の変

 

御苑ネタ続きで、今日は猿ヶ辻について投稿します。

 

京都御苑内には見どころがたくさんありますが、その中でもかなり有名なものの1つが猿ヶ辻なのではないでしょうか?

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猿ヶ辻とは?

猿ヶ辻というのは御所を囲む築地塀の北東の角のことです。

砂利道を挟んで東側には札も建てられていますので、気になる方はそちらもどうぞ。

その名の通り、猿ヶ辻にはが関係しています。

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皆さまもご存知の通り、北東というのは鬼門と呼ばれる風水的には運気の良くない方角です。

運気が良くないのであればその存在自体を無くしてしまえばいいのでは?という考えの元、御所の北東には角がありません。

 

以下が猿ヶ辻、京都御所の北東角です。

本当にこの部分だけ綺麗に切り取られたようになっていますよね。

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猿ヶ辻は非常に有名なので、改めて私が此処でその説明をするまでもないかとは思います。

詳細を知らないという方は2枚上の写真にある、札に掛かれている部分をご覧になってくださいませ。

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塀の上部にいる金網に閉じ込められたお猿さんは夜な夜な悪さをしたそうですが、このお姿を見る限りでは非常に行儀が良さそうに見えます。

 

今となっては当たり前の存在である猿ヶ辻ですが、一体いつからこうなっているのでしょうか?

元々京都御所は現在地ではなく千本丸太町のあたりにあったわけですが、その当時から北東の角は切り取られていたのでしょうか?

御所を守るためということであれば、御所の創建当初から存在していそうなものですが、本当にそうなのでしょうか?

ネットでゆるっと検索した程度ではわからなかったので、また時間のある時にでも調べてみたいと思います。

 

猿ヶ辻で起こった暗殺事件「猿ヶ辻の変」

さて猿ヶ辻と言えばもう一つ有名なことがあります。

幕末には天誅と称した暗殺事件が多発しました。

その一つでもあるのが文久3年(1863年)にこの猿ヶ辻で起こった、猿ヶ辻の変です。

被害者は尊王攘夷派の公家:姉小路公知

姉小路は御所からの帰り道、猿ヶ辻から目と鼻の先にある自宅への帰路の途中で刺客に襲われました。

尊王攘夷論者の中でも姉小路は過激派と呼ばれていましたが、暗殺事件が起こった当時には開国論者である勝海舟の影響を受けており、それまでの考えを変えつつあったそうです。

それゆえ今までは仲間であったはずの尊王攘夷派から邪魔者扱いされていた可能性も考えられますね。

一説ではそれが暗殺の原因となったとも考えられています。

 

しかし刺客に襲われた際、姉小路はただただやられるだけだったわけではありません。

必死に防戦しようとしましたが、突然の敵の襲来に驚いた彼の御付きの刀持ちが彼をその場に置いて逃げてしまったため、彼は武器を失ってしまい、刺客に切られてしまったそうです。

もし姉小路が自分の刀で刺客に立ち向かっていたら、彼は生き延びていたかもしれませんね。

過激派というほどですから、もしかすると刀の方も相当な腕前だったのかも?などと想像力豊かな私はつい考えてしまうのですが、実際のところはどうだったのでしょうか?

彼について調べてみたくなりました。

ちなみに姉小路のお墓は、御苑のすぐ東側にある清浄華院(浄土宗四ヵ本山の一つ)にあるそうですので気になる方は是非お参りをどうぞ。

私も今度足を運んでみたいと思います。

 

さいごに

京都検定においても猿ヶ辻は基本的な知識であり、必須項目です。

ですが、公式テキストの巻末にある年表を見ても、「姉小路公知、猿ヶ辻で暗殺される」と書いてあるだけで、なぜ彼がその命を狙われることになったのかまでは記載がありません。

 

私も最近までは姉小路が過激な尊王攘夷派だったがゆえ、佐幕派にでも命を狙われたのかと思い込んでいました。

ですが調べてみると、姉小路が開国派だった勝海舟の話を聞いて、外国を打ち払うにもまずは先進国の技術を学び日本という国が力をつけてからでなければならないということを知り、それまでの考えが変わっていたことを知りました。

つまり単に尊王攘夷を訴えるだけでは駄目だという現実を知ったことが、姉小路が暗殺されるきっかけになった可能性を知り、その事実に驚かされました。

公家・姉小路公知坂本龍馬のように世界を知ったことでその考えを変えたわけで、そんな彼の存在は世界を知らない尊王攘夷派の仲間たちには邪魔になりつつあったかもしれないだなんて、その歴史を学ぶ側にしてみれば何ともドラマチックな展開です。

過激派と評されたそんな彼がもし生き延びていたならば、今とはまた別の歴史が残っていたかもしれませんね。