今まで何度か足を運んでいる京都御苑ですが、なんとつい最近まで、あの有名な蛤御門にお目に掛かったことがありませんでした。
先日ぶらり御苑散歩をした際についに現地を訪れることが出来たので、その際のことを投稿したいと思います。
蛤御門は御所の西側にある
皆さまご存知の通り、蛤御門は京都御所の囲いの外、南西の方角に位置しています。
京都御所の正門は建礼門(南側)ですが、その門前に広がる砂利道を西へ歩いていくとあるのが蛤御門です。
蛤御門は、その名で呼ばれるようになるまでは「新在家門」と呼ばれていました。
最近までその歴史を知らなかったのですが、京都検定の勉強の過程で知る事になり、現地の札でも改めてその事実を確認して来ました。
正面からのお姿も凛々しいですね。
御苑の門は全て同じような姿なのでしょうか?
いつも地下鉄が最寄りの今出川御門と間之町口ばかり利用してしまうので、他の門を見たことがありません。
今度時間がある時にまたゆっくり見学しに行ってみようと思います。
現在も残る弾痕の跡
さて、蛤御門は蛤御門の変(禁門の変)の戦いの痕跡が残っていることでも有名です。
実際にその歴史を目の当たりにすると感無量ですね。
160年近く前に出来た弾痕の跡。
うーん、感慨深いです。
目の前に立ってその痕跡に触れてみると、胸に込み上げるものがありました。
さいごに
蛤御門の変で敗北した長州藩の久坂玄瑞は、同じく現在の京都御苑内にある鷹司邸にて自害しました。
そちらにも足を運ぼうと思っていたのですが、現地を訪れた時間が遅く、暗くなってしまったのでまた今度。
私が幕末の歴史に興味を持ったのは新選組を知ったことがきっかけです。
それもあってここ数年ほど前までは、幕府を守ろうとした新選組が正義だと思っていました。
しかしながら年を重ねれば重ねるほど、史実を知れば知るほど、新選組がやったことばかりが正しいわけでは無いことに気付かされます。
長州藩はとにかく過激だというイメージがあり個人的にはあまり好かないのですが、吉田松陰はどう考えても「先生」と呼ぶべき存在だと思いますし、長州藩は過激派ばかりではなく、慎重派もちゃんといたわけですしね。
それぞれが自分の正しいと思う道を進んだだけなんですよね。
歴史の現場を訪れた上で改めてその時代に想いを馳せるのは、何というか最近の言葉で言うと、非常にエモいことだと思います。