昨日の紅葉に続きまして、本日も宝筐院についての投稿をお届けします。
小楠公の菩提寺・宝筐院
宝筐院の魅力は訪れる人によって様々ですが、小楠公の菩提寺である点に惹かれる方も多いかと思います。
境内奥で静かに眠る足利義詮と楠木正行
拝観受付を済ませ木戸を押し開くと、そこには庭園が広がっています。
庭園の拝観にはルートがあり、比較的細い道幅を気を付けながら進んでいきます。
本堂前を通り過ぎ、ぐるぐると庭園を周りながら先へと進んでいくと、少し開けた場所にあるのが足利義詮と楠木正行の墓です。
室町幕府第2代将軍である足利義詮はこの地に葬られているようですが、楠木正行に関しては「首塚」とされています。
お墓の奥には林があります。
自然に囲まれている場所なのでひっそりとしていますし、日当たりによって少しひんやりと感じるかもしれません。
御二方とも静かな境内で安らかにおやすみになられているのでしょうね。
いただいた御朱印と同じように、墓所にも足利家の家紋と楠木家の家紋が並んでいました。
まるで両家の強い絆を感じられるような外観ですが、鎌倉幕府打倒のためにともに戦ったはずの足利家と楠木家は、のちに対立することになってしまいます。
その結果、楠木正行の父である楠木正成は、足利義詮の父である足利尊氏が率いる尊氏軍に討たれてしまいました。
それゆえ楠木正行にしてみれば足利家にはさぞ恨みがあったかと思うのですが、正行の人柄に惹かれたという義詮の方は、自分が亡きあと彼の隣に葬られることを望み、当時の住持であった黙庵周諭禅師にその旨頼んだと言われています。
この地に義詮と正行の墓が残っているのは北垣国道のおかげ
しかしながらその後現在まで、この二つのお墓が平和にこの地に残っていたわけではありません。
足利家によって続いた室町幕府の滅亡後、保護の無くなった宝筐院は次第に衰退してしまいます。
幕末には廃寺となり、もはや遺跡となりつつあったこの墓所を保護したのが、京都府第3代知事:北垣国道だったそうです。
墓所の隣には大きな石碑がありました。
この石碑は北垣がこの墓所の存在を世に知らしめるために作った「欽忠碑」というものだそうです。
北垣は宝筐院からほど近くにある祇王寺にも自分の別荘を寄進していますし、廃仏毀釈後の寺社の復興に尽力していたようですね。
北垣というと琵琶湖疎水事業のことばかりが頭に浮かびますが、京都の未来に力を注ぐだけでなく、過去の都の姿も大切に残していきたいと考えていたのでしょう。
廃寺になった宝筐院を再興させたのは天龍寺や神戸の実業家だそうですが、墓所を守りたいと願う北垣からの指示のもと行われていたのかもしれません。
さいごに
歴史や文化的遺産はそれを守ろうとする人がいなければ簡単にこの世から消えてしまいます。
北垣がいなければ、二人の墓所は長く藪の中に隠れてしまっていたかもしれないことを思うと、私も日本史の一ファンとして彼に感謝せずにはいられません。