前回と前々回で島原エリア:角屋と輪違屋の見学について投稿しました。
花街・島原の遺構として現存しているのは、上記の2ヶ所と島原大門の3ヶ所です。
というわけで角屋と輪違屋の見学に合わせ、折角なので島原大門にも足を運んで来た際のことお届けしたいと思います。
花街・島原エリアの顔!現存する島原大門
こちらが有名な島原大門です。
読み方はしまばらだいもんではなく、しまばらおおもんだそうです。
もともと花街というのは、周囲を塀で囲われた場所でした。
出入口は大門のある一か所のみ。
遊女街を廓(くるわ)と呼ぶのは、遊里を隔離するため、そして遊女たちが逃げ出さないように塀や堀などで囲い込んでいたからです。
島原も元は東大門だけだったようですが、のちに西門が設置され、老若男女問わず出入りが出来るようになっていきました。
ちなみに京都で廓と呼ばれるのは島原だけだそうです。
他の遊郭は、新しく開拓した土地という意味で新地と呼ばれています。
有名な出口の柳、さらば垣にも初めてお目に掛かりました。
大きな石の塊は、水槽だそうです。
何か字のようなものが掘られていますが、読めません。
「水槽」?そんな安易ではないかな?
門前の道筋に「思案橋」と呼ばれる橋があったそうですが、どのあたりなのでしょうか?
現地ではそれらしき痕跡は見付けられませんでしたが、よく探せば残っていたのかもしれません。
事前情報無しで訪れてしまったのでそのあたりはわかりませんでした。
大門のすぐそばには島原の歴史についての石碑が。
江戸後期の尼であり、歌人でもあった大田垣蓮月の歌が掘られています。
私はその方面はド素人なのでこの歌の厳密な意味はわかりませんが、今風にいうと、何だかとてもエモい歌なのではないだろうかと感じてしまいました。
彼女は晩年を西賀茂の神光院で過ごし、1875年に85歳で亡くなっていますが、いつ頃この地を訪れていたのでしょうか?
それとも訪れたことはないけれど、噂で聞いた島原について歌ったのでしょうか?
それがわかれば歌の解釈も捗りますし、歌が解釈できれば逆もまた然りかもしれません。
現在のこの島原大門が立てられたのは1867年です。
池田屋事件が1864年、西本願寺を屯所にし始めたのが1865年、鳥羽伏見の戦いが1868年ですから、現在のこの大門を新選組の隊士たちが利用していた可能性もゼロではないのかも?
さいごに
一番最初の大門は今より北(北東)にあったそうです。
西門が完成してからはこちらの東門を利用する人は減ったのかもしれませんが、昔から島原の門といえばこちらの大門(東門)だったことは間違いないと思います。
現在このエリアには石畳が敷かれており、その上、大門から西へと進んでも両側には現代の住宅が軒を連ねており、いわゆる幕末の雰囲気を感じることは難しいかもしれません。
それでもこの島原大門(東門)の前に立ってみると、その誰しもが昔の賑わっていた島原の姿を偲ばずにはいられないのではないでしょうか。