先日、NHKの「アナザーストーリーズ」という番組を初めて視聴しました。
内容が金閣寺炎上事件についてのものだったため、関心があったことがその理由です。
金閣寺は室町時代に第3代足利将軍義満によって建てられたとして、小学校だったか中学校だったか忘れてしまいましたが、学校の授業で習いました。
当時の記憶や教科書に記載されていた文言を明確に覚えているわけではないのですが、長く金閣寺という場所のすべてを義満が造り上げたと思い込んでいました。
実際には義満が建てたのは自分の別荘であって、当初から現在のような金閣寺というお寺だったわけではなく、彼の死後、その遺言によって息子である義持が禅寺にしたといわれています。
そんな金閣寺ですが1950年には火事の被害を受けており(それ以前にも応仁の乱などで焼失)、現在の金ピカ金閣寺(鹿苑寺)は火事以降に建て直されたものであって、残念ながらその長い歴史は既に失われてしまっています。
3つの視点で語られる金閣寺炎上
初めて視聴した番組だったので、全ての回で同じような構成になっているのかはわかりませんが、金閣寺炎上について3つの視点から語られ、番組が進行していきます。
なかなか面白い番組だと思いました。
視点1 犯人 林養賢
彼は京都は舞鶴市生まれ、生家は西徳寺という寺院、村唯一の寺生まれだったとのこと。
母は今で言う教育ママであり近所の子供と遊ぶことも少なかったと、地元の方が語っておられました。
住職であった彼の父は金閣寺のことばかり話す人で、ツテのあった金閣寺の僧侶に息子(養賢)のことを頼んでいたそうです。
さすが父親の教育の賜物といったところでしょうか。
金閣寺に対する父の熱心なソレが、子である養賢にも刷り込まれていたのでしょうね。
映像には養賢の学友だった方も登場し、直接インタビューもされていました。
話の内容がリアルで面白かったです。
養賢は金閣寺と供に朽ち果てようと金閣寺に火を放つも死にきれず、燃え盛る金閣寺を背に境内から脱出し、裏山で自決を図ります。
結局それも未遂に終わり、数年後、その最後を入院中の病院で迎えることになりました。
視点2 三島由紀夫と水上勉
金閣寺炎上をテーマに小説を書いた人に、三島由紀夫と水上勉がいます。
視点2は、エッセイストの酒井順子さんによる彼らの小説の分析についてでした。
表側の視線、裏側の視線という酒井さんの考察は非常に興味深く、私はまだどちらの小説も読んだことはないのですが、早く読まなければと感じさせられるようなワクワクとした感覚に陥りました。
エリートコースを歩んできた人、三島。
恵まれない環境に育った人、水上。
やはり小説というものは作者の人生観や価値観が表れるものであり、実際に金閣寺炎上をテーマにした二人の作品にもそれらが表れているとの見方です。
特に三島の小説『金閣寺』の方には、滅ぼすべき絶対性や戦後社会に対する彼自身の想いが描かれているとのことでした。
また水上は『金閣炎上』をノンフィクションとして書いたものの、犯人である林と出会っていたというフィクションが書き込まれている指摘されており、ますます興味をそそられました。
同じ題材でも、ここまではっきりと表と裏からの見方で描かれてているものは珍しいのかもしれません。
視点3 村上慈海
最後の視点は金閣寺の炎上時、住職を務められていた慈海和尚についてです。
養賢は金閣寺の学僧でありながら自らが属する寺に放火をしたとして、番組ではその育て方について慈海和尚が世間から強く責められたことに触れていました。
事件前には生きることについて林に問われ、慈海和尚は無意味だと答えたといいます。
私は慈海和尚が養賢の育て方を間違えただとか、慈海和尚の監督力不足だとかそんなことは全く思いませんし、ただ一つ明らかなのは養賢が僧としてまだ未熟だったことだけだと思いました。
番組には臨済宗の僧侶で作家でもある玄侑宗久さんが登場されており、生きることについて「生まれちゃったもんで生きてるんですよ」とおっしゃっていました。
玄侑さんと同じように慈海和尚が解いたその答えが、林はショックだったのかもしれません。
彼は明確な答え、自分の存在意義を示してくれるような答えを慈海和尚に求めていたんでしょうか。
玄侑さんは続けて「生き甲斐はでっちあげられていくもの」だとおっしゃっていましたが、私もその考え方には同意しています。
人は生まれたところでそのことに意味などないと思っています。
意味を作り出すのは自分自身であるからです。
それは禅寺の庭園が人によって見方が異なる、それぞれの見方が、それぞれの正解があって良いのと同じように、唯一の絶対的な答えなどないことと同じだと思います。
禅とは捉え方の問題であるため、自分自身で深く考える力が必要になります。
だからこそ本来ならば禅問答として、慈海和尚からの答えについて養賢は考えなければならなかったと思います。
しかし彼はそれを放棄したわけです。
それは師である慈海和尚のせいではなく、禅僧としてあるべき姿を見失った養賢自身の問題だと私は思います。
事件後に刑務所暮らしになった養賢には、慈海から衣服や仏教の書籍の差し入れがあったそうです。
本来ならば見捨てられてもおかしくはないはずの養賢の存在を慈海和尚が最後まで見守っていたことを知り、事件のことで慈海和尚を一番責めていたのは和尚本人だったのではないかと感じてしまいました。
さいごに
養賢は吃音であったり、母から厳しい教育を受けていたことなど同情するような部分もあり、一概に彼の僧としての未熟さだけを責めることは無意味でもあるかもしれません。
酒井順子さんは著書『金閣寺の燃やし方』で、三島と水上の作品を比較しているそうです。
まず自分自身で三島と水上の作品を鑑賞してからそちらも拝読したいと思っていますので、終わり次第そちらの感想もまた投稿したいと思います。