本日もまた『信長公記』より織田信長と京都に関する投稿をお届けします。
昨日の投稿で、信長公は京都には邸宅を持っていなかったことをお話しました。
(厳密に言うと少しの間持っていたには持っていたのですが、後に手放しているという意味では)
というわけで、京都を拠点にしてはいなかった織田信長が住んでいたのは、安土城でした。
しかしながら、生まれた時からずっと安土城に住んでいたわけではありません。
30歳のときには小牧山に築城。
34歳の時には稲葉山城を攻略後、居城。
安土城を築城し、そちらに移ったのは信長公43歳の時で、もはや晩年に近い時期です。
同じ頃に、京都の二条にも新邸を造築。
せっかく自分のために作ったその新邸も皇室に献上するなど、彼がその拠点を長く京都に置くことはありませんでした。
とはいえ官位を与えられ政務をこなすために、またその他の用事もあったのでしょうが、何度も上洛しています。
『信長公記』を読むと、足利義満を将軍に奉じるため、また朝廷への挨拶などの他にも、信長公が京都で何をしていたのかがわかる記録が見受けられます。
このブログは京都に関する内容を取り扱っていますので、京都における織田信長に着目してみるのも面白いと思い、気になったものいくつかをまとめてみました。
- 将軍・足利義昭のための将軍御所を造営
- 永六12年、朽ち果てた内裏を修理
- 賀茂祭(葵祭)の賀茂競馬に自身の馬を出馬
- 宮中・清涼殿の庭にて蹴鞠の会を見学
- 妙覚寺で茶の湯の会を開催
- 祇園会(祇園祭)を見物
- 天正7年、石清水八幡宮を修築
- さいごに
将軍・足利義昭のための将軍御所を造営
信長公が足利義昭から助けを求められ、彼を第15代足利将軍にするためで尽力したことはよく知られています。
その後信長公は、義昭のために将軍御所を造りました。
その御所には、細川昭元の邸から藤戸石や銀閣寺(慈照院)の庭に置かれていた九山八海という名石を運び込ませています。
現在、この有名な藤戸石は醍醐寺の三宝院庭園にあり、私たちもその姿を見ることが出来ます。
永六12年、朽ち果てた内裏を修理
京都検定の公式テキスト、京都御所の項目には、織田信秀(信長の父)が内裏の修理費を献上した旨の記載があります。
『信長公記』を読むと、信長公自身もその父を引き継いでなのかはわかりませんが、内裏の修理を行っています。
日乗朝山と村井貞勝を奉行に、紫宸殿、清涼殿、内侍所などを工事したようです。
賀茂祭(葵祭)の賀茂競馬に自身の馬を出馬
この賀茂祭の行事の一環として、現在でも5/5の上賀茂では賀茂競馬という神事があります。
その名の通り、馬を走らせてその速さを競うというものです。
神社側からの要請があり、信長公は自分の馬をこの賀茂競馬に出したようです。
それを思うと賀茂競馬の神事を今すぐにでも見てみたくなりますね。
宮中・清涼殿の庭にて蹴鞠の会を見学
信長公は、正親町天皇の皇太子:誠仁親王が開催した蹴鞠の会に呼ばれています。
蹴鞠といえば、その伝統を継承する飛鳥井家が有名です。
京都検定でも蹴鞠といえば、飛鳥井家の邸宅跡にある白峯神宮が頻出です。
そんな飛鳥井家からも、11代当主の飛鳥井雅教が参加している記述が見受けられました。
妙覚寺で茶の湯の会を開催
信長公の定宿として有名な妙覚寺。
京都や堺から茶人を招いて茶の湯の会も開かれていたようです。
その際の茶頭は千利休でした。
祇園会(祇園祭)を見物
夏の京都の行事といえば、祇園祭は欠かせません。
と言うわけで、信長公もお連れの物にも武具は持たせず、祇園会を楽しんだようです。
天正7年、石清水八幡宮を修築
元々この石清水八幡宮は、源氏ゆかりの地でもあり、武家の守護神として扱われていました。
その石清水八幡宮の一大事とあってか、信長公は修繕に乗り出します。
本殿と前殿との間に掛けてある木製の樋が腐ったせいで雨漏りが起こり、社殿の状態が悪かったものを、起工から9カ月で完了させました。
掛かった費用は千貫以上(現在の一億円以上)。
この「樋(とい)」は今でも「黄金の樋」として、石清水八幡宮の見どころの一つになっています。
さいごに
『信長公記』を読んでシリーズ第2回をお届けしました。
現在京都について学んでいる身としては、この『信長公記』を読んだことによって多くの学びがありました。
あらゆる事物に信長公が関わっていた記録は、非常に興味深く、京都を学んでいく上でより視野を広げる必要があることを気付かされました。
難しいことは置いておくとしても、新しいことを知るというのは、本当に楽しいことですね。
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