立華の京都探訪帖

1200年の都を歴史・文化的視点から楽しむ旅記録 ᝰ✍︎꙳⋆

魔王ではなかった?自分の織田信長像が変わった本

 

織田信長という歴史上の人物について、皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか?

 

いわゆる世間一般的な、残虐・短気で怒りっぽい・戦には強いけれどその分横暴だったなど、どちらかと言うとあまり良くない印象をお持ちの方が多いかと思います。

 

しかしながらこれらはテレビ番組や創作物から得た情報であり、一方的に植え付けられた印象でしかないとも言えるのではないでしょうか?

 

今日はそんな真偽不明の織田信長像が180度変わる?かもしれない、面白い本をご紹介したいと思います。

 

副題は「覆された九つの定説」ということで、従来の織田信長のイメージを改めさせられる内容になっています。

従来と言っても、ある程度は信長公を知っている人にとっての従来であり、私のような戦国時代の歴史初心者にとっては、全てが新鮮な内容でした。

とはいえ私は先日、現代語訳された『信長公記』を読んでいたこともあって、内容の中に何の事だか、誰のことを言っているのかわからないという箇所はありませんでした。

恐らく信長公に関する知識が中程度以上は必要になるかと思いますので、全くの織田信長初心者という方は、こちらの本を読まれる前に『信長公記』を一読されることをおすすめします。

 

それでは内容の中から気になったものをいくつかご紹介したいと思います。

 

 

信長は本当に朝廷を支配しようとしたのか?

信長公が活躍した時代の天皇正親町天皇です。

足利義昭を追放し、室町幕府を終わらせた後の信長は、朝廷をも自分の支配下に置こうとし、権威を剥奪しようとしたというのが戦後において、広く受け入れられるようになった考えだそうです。

天皇に譲位を迫った、強引に改元を進めた上に自分が選んだ天正に年号を変えさせた、などの理由からそう思われていたようです。

個人的には、先日『信長公記』を読んだ限りではそういった印象は受けなかったので、初耳でした。

(そもそも年号も、信長公が好き勝手に付けたわけではないそうです。)

また当時は、諸々の理由で譲位ができない時代が続いていただけであり、正親町天皇自身は譲位を望んでいた旨の史料が残っていることもあって、信長公が譲位をサポートしたという見方もあるようです。

天皇は譲位したあと(つまり上皇になったあと)、いわゆる現在の御所という場所から仙洞御所という新規の場所へ移るのですが、その造営にも多額の費用が掛かるがゆえ、結果的に譲位がされなかったと見られています。

正直、御所と仙洞御所の違いがよくわからない方も沢山いらっしゃると思います。

(私も京都検定を勉強する過程で、初めてその存在を知りました)

現在も京都御苑内の京都御所のすぐ近くには、仙洞御所(御殿は焼失)や大宮御所が残されており、その違いを知ることが出来ます。

内部の拝観も出来ますので公式ホームページを調べてみてください。

 

京都所司代村井貞勝に度々相談をする織田信長

京都所司代とは、簡単に言うと治安維持のために設置された行政機関です。

治安維持といっても仕事の幅は広かったようで、武士の統率が主な仕事であったようですが、明確な仕事の範囲はわかりません。

そんな京都所司代である村井貞勝に、信長公は度々相談を持ち掛けます。

信長公記』を読むまでは、信長公が行政機関にちゃんと話を通し、道理にかなった行ないをするような人だとは思っていませんでした。

信長公記』を読んでみると、信長公が度々村井氏に相談をしている記述があり、うつけで暴力的、自分勝手で横暴な人というイメージがある信長公が規則を重んじていたという事実に驚くとともに、その意外な人間性が気になっていました。

信長公記』によると、信長公が二条の新邸を皇室(正親町天皇の子)に献上したのち、本能寺を定宿にしたい旨を伝えたのも村井氏です。

また信長公だけでなく、朝廷も村井氏に要請を行ったことがあり、それは信長公が安土で行った馬揃えを、京都でも見たいと朝廷が村井氏に希望した際です。

当時の道理として、武士である信長公が所司代に相談するのは至極当たり前のことだったのかもしれませんが(歴史専門家ではないのでこの辺りの知識が無く曖昧で申し訳ありません)、それにしてもこの二人の間では何度もやり取りがなされていたのではないかと思いました。

村井氏は信長公にとって非常に重要な存在であり、朝廷と自分を繋ぐ上でも、村井氏には信頼を置いていたように感じます。

信長公と村井氏の間のやりとりに関する史料(もし残っていれば)を研究してみると面白いかもしれない、と思ってしまいました。

 

三職推任をめぐる議論

三職推任ってなに?何だか難しそうな言葉だと思われる方もいるかと思います。

信長公が武田氏を滅ぼした当時、その功績から信長公に「太政大臣」か「関白」か「将軍」のどれかの官位を与えようという動きがありました。

三職推任をめぐる議論というのは、それを朝廷から信長に持ちかけたか、もしくは信長自身がそれを強く望んだか(強要を含む)、そしてどの官職を与えるかなどに関する議論のことです。

研究者の中で議論になっている理由は、勧修寺晴豊という公家が書いた『晴豊公記』という史料の読みが難しいからだそうです。

ちなみに勧修寺晴豊とは、朝廷において武家伝奏という役職に就いていた人で、武家(武士)が天皇に対して伝えたいことなどを取り次ぐ仕事をしていました。

(個人的な意見ですが、京都を学ぶという観点からしても、この武家伝奏という役職は皇室を知る上で非常に興味深い役職である気がします)

 

『晴豊公記』における議論はさまざまですが、この本を読んだ私個人の感想としては、

  • 朝廷自身が、信長にどの官職を与えたいか勧修寺晴豊に伝えた

  • 勧修寺氏がそれを村井氏に伝えに行った

  • それを聞いた上で村井氏は、(信長公をどの官職に就けるにしても)安土の信長公へ直接結果を伝えにいくのがよいと答えた

の流れを感じました。

 

原文を読んでいないので、議論の中にある助動詞「被」の解釈についてはわかりませんが、この部分だけを読むと単純にそれだけのことのように思えます。

村井氏が勧修寺氏に対し、特にどの官職が良いだとか、信長公がこれを望んだといったようなことを伝えたような含みは感じられませんでした。

上の項目で、信長公と村井氏の関係が気になっていたこともあって、私には村井氏はただ単に、朝廷と信長公の間の取り次ぎ役でしかないよう感じられました。

(私はそもそもこの件以前から、信長公は官職を希望していない人だったという認識が強いため)

素人意見ですのでこの辺りは流しておいてください。

とはいえこういった議論があることを知るのは、何が正解かは別として、非常に面白いですね。

 

「信長は無神論者」説の真偽

この点に関しては、戦国時代かつ織田信長初心者である私もうっすらとはそういう認識がありました。

ですが例によって先日『信長公記』を読んだ限りでは宗教に対する嫌悪感だとか、そういったものは感じられませんでした。

そもそも宗教を嫌っていたとして、そんな人が上洛時にお寺を宿泊地として使うだろうかとも思いましたし、菩提寺を建立することもないでしょうから、最近は何となくそれは違うのではないだろうかと認識を改めつつありました。

信長公が無神論者と思われていたのは、単純に比叡山延暦寺本願寺と戦ったからということによるものが大きいようです。

あとはイエズス会フロイスの『日本史』にその旨書かれているせいで、長くそう信じられて来たというのもあるようですね。

 

さいごに

こちらの本は、織田信長研究者の方数名が書かれた文章をまとめたものになっています。

興味のある項目だけを読んだのですが(とはいえ9割)、どの項も史実の信長公を知る上で非常に興味深く読み進めることが出来ました。

あくまで創作物である歴史小説からはわからない真実や、その真実をめぐっての研究者たちによる議論や自論についてわかりやすく学ぶことが出来たと思います。

信長研究一つとっても、さまざまな角度から研究が進んでいるわけで、一人の方だけが書かれた本も十分面白いのですが、こうやってそれぞれの専門分野の方の研究をまとめた本も、また違った面白さがありますし、より多くの知識を得ることが出来ますね。

 

今月はもう少し織田信長に関する投稿をしたいと思っておりますので、よろしければ是非お付き合いください。