さて今回も『信長公記』を読んでの、気になった箇所&感想をお届けします。
今回は鷹狩についてです。
戦国武将たちが鷹狩を好んだというのは有名な話のようですが、戦国時代素人の私には全くの初耳でした。
江戸時代になると将軍や多くの大名たちはよく鷹狩をしていたようで、徳川家康も大好きだったそうです。
それゆえ江戸時代になると、鷹狩のための制度が整備されていきます。
そういった知識なしに『信長公記』を読んでいたところ、信長公が鷹狩に行ったという記述がかなりの数見受けられるため、信長公は随分と鷹狩が好きだったんだなと気になってしまいました。
場所は安土方面の場合もあれば、京都の場合もありました。
そこでまず疑問に思ったのが、一体京都のどこで信長公は鷹狩をしていたのだろうかということでした。
洛北の鷹峯は(悟りの窓で有名な源光庵のある辺り)、その名の通り鷹狩の地として知られ、天皇がよく鷹狩をしていたそうです。
そもそも私は鷹狩についての知識がなかったため、鷹狩に対し、単なるスポーツとしての狩猟・娯楽だとという印象しかありませんでした。
調べてみると、それがどうやら信長公にとっては違ったようなのです。
信長公は一体、京都のどこで鷹狩をしていたのでしょうか?
そして信長公にとっての鷹狩はどんなものだったのか、ということも合わせて考えてみたいと思います。
鷹狩の歴史
鷹狩の歴史は長く、少なくとも1500年前には既に行われていたようです。
もともと鷹狩りは天皇など身分の高い人が行うもので、一部の特権階級がその中心的な担い手でありました。
その変遷をみると
- 天皇、貴族、豪族(古代社会)
↓
↓
- 皇室(明治以降、その技を継承)
といった具合です。
素人の私は鷹狩をそれほど難しいものだとは考えていませんでしたが、実際の鷹狩は鷹の特性を熟知した上で、飼育や訓練をしなければなりません。
そのためには豊かな経済力と多くの労力が必要でした。
その結果として、特権階級が鷹狩を独占してきたようです。
信長公は、京都のどこで鷹狩をしていた?
場所を京都に限定して、『信長公記』の記述からその場所を見ていきます。
ざっと見たところこれだけありましたが、見落としがあるかもしれません。
圧倒的に東山が多い印象でした。
その次は一乗寺でしょうか。
たまたま東山から一乗寺のあたりでの鷹狩が多かっただけかもしれませんが、そのあたりで鷹狩をすることに対して何か意味があったのだとしたら気になりますね。
現在でいうどのあたりなのかがわからないのが残念ですが、もしわかれば非常に興味深いです。
現在の住宅地が戦国時代には野山だった可能性もありますし、京都の古地図を見てみればわかるのでしょうか。
もし調べるとすると、京都の図書館で郷土史などを当たる必要がありそうですね。
将軍などが鷹狩に出かけることは、その場所の支配権を認めさせるという政治的意味もあったそうです。
つまり信長公は、京都の至るところで鷹狩をすることによって、自分が京都を支配しているということを知らしめようとしたとも言えるでしょう。
鷹狩で捕獲した獲物はどうする?
自らの食料にする以外にも、他者に振る舞ったり、贈り物として扱われていたようです。
つまり自分で食べるだけでなく、他者に対しても差し出すということで、そのことが上下関係や友好関係に繋がるというわけです。
このことだけでも鷹狩というものが、単なるスポーツではなかったことがわかりますね。
鷹狩は単なる娯楽ではない?一つの政治手法だった鷹狩
鎌倉時代になり武家政権が始まると、鎌倉幕府は武士の鷹狩を禁止する法令を何度も出しています。
しかしながら時代が変わり室町幕府が成立しても、依然として武士の鷹狩は行われていたようです。
その背景には、守護大名(室町幕府に命じられて国ごとに配置された役職で、次第に力をつけ、国を支配するようになった人)の鷹狩を認める代わりとして、各地方の鷹を将軍に差し出させるという目的がありました。
また奥州などから送られてきたその鷹は、天皇へ献上することもあったようです。
(ちなみに『信長公記』にも奥州から鷹を進上させている記述が見受けられました。信長公も何度か皇室に献上していたのかもしれません。)
つまりこういったやり取りの中にも、上下関係がはっきりと示されていたわけですね。
さいごに
室町幕府が滅亡してからは、鷹狩においてその役割を信長公がしていたと考えられます。
地方から鷹を進上させ、その代わりに地方の鷹狩を認めていたのかもしれません。
そうすることで地方との主従関係を築いていたのでしょうか。
そしてその進上させた鷹を自分で鷹狩に使うだけでなく、天皇に献上することで朝廷との良好な関係を築いていたのではないかとも考えられます。
信長公は単にスポーツや娯楽として、鷹狩が好きだったわけではないであろうことがわかりました。
鷹狩を政治利用する、と言ってしまうとあまり響きはよくありませんが、そうすることで周りとの関係を良好に保とうとしていたとすると、信長公のその手腕は驚くべきものです。
やはり信長公は、天下人の名に相応しいキレ者だったと言えるでしょう。
参考文献