一見穏やそうに流れる宇治川。
近くまで行ってみると意外に流れが速く、泳ぐなんてとんでもないことだと感じさせられることがよくあります。
そんな宇治川ですが、幾度も戦場になってきたという歴史を持っています。
その一つが、『平家物語』にも記されている源義経と木曽義仲の戦いです。
その歴史の痕跡が、宇治川の中州にある橘島に「宇治川先陣之碑」として残されています。
勝敗は名馬のおかげ?先陣争いで有名な梶原景季と佐々木高綱
梶原景季と佐々木高綱は、鎌倉時代の武士で、源頼朝に仕えていました。
義仲軍と戦うにあたり二人は義経に従いましたが、それにかこつけて頼朝の馬を欲しがります。
池月(いけづき)と磨墨(するすみ)という2頭の名馬です。
景季は池月を所望しましたが、その願いは叶わず、頼朝はその池月を高綱に与え、景季には摺墨を与えたそうです。
結果、先陣争いの勝負には高綱が勝ったとされています。
『平家物語』には、先陣争いの際に2人が駆け出した場所が「橘の小嶋ケ崎」だと書かれてあえるそうです。
しかしながら、その詳しい場所は判明しておらず、それゆえこの話は、伝説の域を出ないとも言われているそうです。
現在の宇治橋がある場所よりも下流であった出来事とされていますので(つまりもっと北)、少なくとも先陣の碑がある場所で、実際に先陣争いがあったわけではないようです。
『平家物語』の記載にある「橘の小嶋ケ崎」にちなみ、碑がある場所は橘島、近くの橋は橘橋と名付けられています。
さいごに
以仁王の戦いや、織田信長の槇島城の戦いなど、宇治では何度も戦があったので、現代までよく宇治茶が残ったなと驚いたのですが、栄西が宋から茶を持ち帰り、明恵が宇治に茶を伝播したのは、この先陣争いの後だそうです。
ある程度栽培地が広がっていれば根絶することはないでしょうから、信長の槇島城の戦いの影響はなかったのでしょうか?
戦いが宇治に及ぼした影響について、調べたくなってしまいました。
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