前回の続きです。
さていよいよ本文です。
『瓢鮎図』を味わうには、上部に書かれた漢詩を見落とすなかれ
上の写真の撮り方を見てもお分かりになるかと思いますが、私は今までこの絵画を人と鯰の部分でしか見ていませんでした。
つまりそれ以外の部分は重要ではないと思っていたわけです。
実際にはこの人と鯰の絵の上には、漢詩がズラリと並んでいます。
それは京の五山の禅僧たち31人が書いたものなのですが、私含む漢文を読めない(読まない)人は、自然とこの漢文を敬遠してしまうのではないでしょうか。
というわけでそういう人は漢文が読めないゆえに、その下に描かれた人と鯰にばかり着目してしまい、そこからこの作品の全てを味わおうとしてしまいがちです。
しかしながらそれが間違いであると、この『「瓢鮎図」の謎 国宝再読 ひょうたなまずをめぐって』の著者である芳澤氏は述べています。
まず『瓢鮎図』が描かれた経緯を知ろう
そもそもこの『瓢鮎図』という絵画はなぜ描かれたのでしょうか?
その経緯を知れば、人と鯰の上に書かれた漢詩にも自然と関心が持てるようになります。
キーワードは
の3つです。
上から書かせた人、書いた人、書かれた絵に説明(のようなもの)を書いた人です。
室町幕府四代将軍:足利義持(よしもち)は、金閣寺を造ったことで有名なあの三代将軍:足利義満の息子です。
初代将軍:足利尊氏から続く将軍のワンマン政治を、幕府を主体とする政治に変えていったのがこの義持でした。
それゆえこの足利義持の時代以降に、本当の室町幕府が始まったとも言えるようです。
義持は実母の死を機会に父:義満に反発するようになり、父の死後自分が実権を握るようになると父とは正反対の方針を取るようになります。
義満が造った別荘:北山殿さえも、いわゆる現在の金閣寺(舎利殿)を残すだけで、それ以外は全て壊してしまいました。
父の傲慢さや派手好きゆえの下品さに、よほど嫌気が差していたのでしょうか。
(とはいえ個人的には、この舎利殿だけはちゃんと残したというところに深い意味があるように思います)
歴史を見てみると、現代と同じように親の七光りのような人も沢山いるわけですが、義持はそういうタイプではなかったように思います。
元々しっかりと自分の意見を持ったタイプの人だったのかもしれません。
芳澤氏によると、この足利義持は禅に傾倒していました。
普段から禅問答をしたり、当時の有名な禅僧たちにそれをさせたり、禅詩を作らせたりと禅宗の熱心な信者であったそうです。
それゆえこの『瓢鮎図』も、最初から禅問答をさせるつもりで義持が如拙に絵を描かせ、その絵を観た上で、五山の禅僧たちが禅問答をしているのだと芳澤氏は述べています。
(※義持が人と鯰というモチーフを如拙に与えたのか、如拙が自分で考えたのかは不明)
つまり義持は、常日頃からやっていたことを『瓢鮎図』という作品の上でも行おうとしたわけですね。
禅問答というのは、禅宗の修行者が悟りを開くために行う師とのやり取りです。
修行者の質問に師が答えるというもので、修行の一つでもあります。
しかしながらその真意を体得するのが非常に難しく、優秀な五山の禅僧たちがどのような禅問答を行うのか、義持は例によって彼らを試したのだろうと芳澤氏は言います。
知識が凄い!禅僧たちによる漢詩は単なる『瓢鮎図』の感想ではない
これはこの本を書かれた芳澤氏のさすがの知識というところなのですが、本文では31人の禅僧たちの各々の漢詩が翻訳されています。
芳澤氏によると、禅僧たちは多くの故事や文学作品、仏典や禅録に出る言葉や話を盛り込み、それぞれの作詩の技術を競っていると言います。
翻訳を読むと禅僧たちの知識の凄さが、わかります。
その翻訳については、是非この著作をお手に取ってお確かめください。
芳澤氏はなるべくやさしく、わかりやすくをモットーにこの著作を書かれていますので、どなたでも読みやすい内容になっています。
漢詩初心者の私でも、大変面白く読み進めることが出来ました。
『瓢鮎図』は何百年も昔の美術品ゆえ、欠損してしまっている場所もあり、芳澤氏はこの本の中でその復元もされています。
推測、検討の仕方が非常に興味深かったですし、漢詩のルールについても勉強になりました。
山水画は「胸中の山水」
ここまでは『瓢鮎図』における人・鯰・漢詩に着目してきましたが、そもそもこの『瓢鮎図』は山水画です。
人と鯰の後ろには山があり、鯰は川に泳いでいるわけで、自然が描かれています。
芳澤氏によると、昔から中国では山水画は自分の胸の中にあるものを描いたもの、「胸中の山水」だと言われているそうです。
つまり山水画は、ただ単に風景を描いただけのものではなく、自分の内、すなわち仏教でいう心を表しているというわけです。
山水画=宗教画(あるがままの姿、禅の世界)だとは今まで知らずにいたので、芳澤氏のこの指摘には驚かされ、山水画への印象が変わりました。
さいごに
禅のテーマは「こころ」です。
ゆえに五山の禅僧31人はこの『瓢鮎図』において、「こころ」についての各自の考え方を漢詩に表している(禅問答している)と、芳澤氏は述べています。
漢詩を無視し、絵の部分のみに着目した研究が多く行われてきたそうですが、何故多くの研究者たちは漢詩の部分を無視したのでしょうか?
それはその研究が美術の専門家たちによるものだったからであり、宗教的な知識や漢詩を読み解く知識がないために、人と鯰の上にある漢詩の重要性が見落とされてきたのだそうです。
やはり知識がないと作品の持つ真の意味を知ることも、味わうことも出来ないということなのでしょうね。
私は専門家でも研究者でも何でもない凡人ですが、美術品の研究と言うものがいかに大変かを痛感させられました。
今回、芳澤氏のこの著書を手に取ったことで、書かれていることはよくわからないけれど、何となくその雰囲気が好きだっただけの『瓢鮎図』が、より大好きになりました。
著書を読み進めて行くうちに学んだこと、その上で気になったことを調べてこの投稿をまとめてみましたが、私のこの文章からだけでは『瓢鮎図』の本当の謎については明確に理解が出来ないと思います。
謎を解明したいという方は、是非この著書を読んでみてください。
私は近いうちにまた、退蔵院に足を運んでみようと思っています。
参考文献
[rakuten:bookoffonline:12508431:detail]