今年の大河ドラマ『どうする家康』では、北川景子さん演じる淀殿が話題ですね。
私は大河ドラマを観ていないので、北川景子さんの熱演振りは存じ上げないのですが、史実上でもやはり淀殿にはあまり良い印象を持っていません。
嫌いというわけではないのですが、どうも我が強すぎるというか、鋼の女と言われるだけあっておそろしいという感情を抱かずにはいられません。
父母と共に、彼女自身の心も死んでしまったのでしょうか。
そんな淀殿ゆかりのお寺が、京都の東山、三十三間堂のそばにあります。
父:浅井長政の菩提ために建立した養源院
浅井氏は、実際には立て籠った小谷城で自害したわけですが、義兄の織田信長を裏切り敵方についたというのは有名な話ですね。
そんな父の菩提を弔うため、娘の淀殿(茶々)は建立したお寺の名前に父の法号を付けました。
三十三間堂の東側に位置する養源院。
ホテル:ハイアットリージェンシー京都の南にあります。
すぐ近くには京都国立博物館もあり、車通りの多い七条通りの近くにあるにも関わらず、境内は静かです。
建立は1594年。
1619年に焼けてしまいましたが、その2年後には淀殿の妹:崇源院(江)によって再建されました。
伏見城の遺構が多数現存しているそうです。
養源院は多くの美術品を所蔵しており、中でも杉戸絵『唐獅子図』『麒麟図』は有名で、京都検定でも頻出事項です。
とはいえ個人的には、養源院といえば『白象図』を一番に思い浮かべますが、皆さんはいかがでしょうか?
これらの杉戸絵は俵屋宗達が描いたとされており、他には狩野派による襖絵なども所蔵しています。
有名な血天井は客殿にあります
養源院でもっとも有名なものはやはり血天井だと言えるでしょう。
京都のいくつかの寺院には、血天井というものが存在しています。
生々しいその名前。
さて、血天井とはどういったものなのでしょうか。
時は戦国時代の終わり。
関ヶ原の戦いの前、徳川家康は対立関係にあった上杉氏の討伐のため会津に出掛けました。
いわゆる関ヶ原の戦いの前哨戦と言われる戦いです。
京の都を立つ前、徳川家康は伏見城の留守番を部下である鳥居元忠に頼みます。
留守を任せるとは言え、上杉氏は強敵のため、あまり多くの兵は京に残せません。
そのことを家康から詫びられると、覚悟を決めていた元忠は出来るだけ多くの部下を連れて行くよう家康に助言しました。
家康が京を立つと、予想通り、石田三成の軍が伏見城の鳥居元忠軍を攻めて来ました。
圧倒的な兵力の差に、元忠たちは伏見城に籠城し時間を稼ぎます。
最後には約300人の部下とともに元忠も自害。
家康から留守を任された時、元忠はそうなる運命を受け入れていたのかと思うと、本当に胸が痛みますね。
血天井は、彼らが自害したその廊下の床下を、そのまま天井に利用しているというものなのです。
養源院の血天井の面白いところは、豊臣方が建てた寺院の天井に徳川ゆかりのものを用いている点です。
お寺の方のお話では、そうすることで豊臣を見張る徳川の図が表現されているとも言えるとおっしゃっていました。
確かに!と非常に面白かったです。
まるでお守りのようですね。
血天井が残されているのはどうやら養源院のみならず、他の場所も徳川家ゆかりの寺院のようで、基本的には鳥居元忠軍の供養の意味合いが強いのだと思います。
さいごに
訪れたのは昨年のちょうど今頃でしたが、葉の色づきが始まっていました。
歴史小説(大河ドラマも)などが一般的になってから、世の中には史実と創作が入り乱れたストーリーが溢れていますね。
もちろんそれを悪いことだとは言いませんし、私自身日頃から楽しませていただいているのですが、歴史を学ぼうとする人は、歴史小説はあくまで娯楽のためのものであるということを十分に理解しておかねばなりません。
ノンフィクションをうたう小説の中に、フィクションが混じっていることも少なくないのが現実です。
だからこそ歴史を学ぶということは、テレビから教わったような万人受けする情報や、他人から聞いた曖昧な話を信じるのではなく、信憑性のある資料を用いて自分自身で調べていくべきものだと思っています。
淀殿に関しても世間で言われる評判や評価を信じるのではなく、彼女という人間に興味を持ったならば、自分なりの淀殿像を導き出してみるととても楽しいです。
日本史を学んでいくと、歴史上の人物一人ひとり、それぞれの正義が見えてきます。
何が正しくて何が悪いのか、それを学ぶ人によっても捉え方は異なるでしょう。
それこそが日本史の面白さだと思います。