藤原定家といえば何を思い浮かべるでしょうか?
『小倉百人一首』を思い浮かべる方が多いでしょうか?
彼が書いた日記『明月記』を思いつく方も多いかもしれません。
平安時代末期に生まれた公家であり、『千載和歌集』の撰者でもある藤原俊成を父に持つ歌人、それが藤原定家です。
ふじわらのさだいえ、ふじわらのていか。
どちらの読み方にせよ、その名を聞いたことのない方は少ないかと思います。
ではそんな定家の人物像を、皆さまはどこまでご存知でしょうか?
私はほとんど知りませんでした。
というわけで、藤原定家を知るために上記の本を読んでみました。
定家の日記『明月記』から定家を知る
そもそも『明月記』というのは、定家が書いた漢文体の日記です。
内容は、定家19歳の頃から74歳までの間の、55年間もの歳月の出来事が記されています。
京都御苑の北にある冷泉家時雨亭文庫には、国宝にも指定されている定家自筆の56巻などが保管されているそうです。
55年もの長い間日記を書き続けていたら、そんな大作になってしまうのも頷けますね。
(冷泉家の特別拝観については以下をどうぞ)
ちなみに冷泉家は、定家の孫・冷泉為相(ためすけ)を始祖とする和歌の家です。
定家はどんな性格?
有名な話なのかもしれませんが、藤原定家という人はプライドが高い人間だったということを、私は今回初めて知ることになりました。
ただプライドが高いというよりも、こだわりが強いという印象を受けました。
やはり芸術的センスの優れた人物というのは、癖が強いものなのでしょうね。
そして個人的に意外だったのは、てっきり穏やかな性格なのだろうと思っていた定家が、若い頃に乱闘騒ぎを起こしていたことです。
カッとしたらすぐに手が出てしまう武闘派というわけではないのですが、気に入らないことがあると態度には出やすいタイプだということがわかって面白かったです。
感情が高ぶるとつい冷静さを欠いてしまうことが多々あるような、少々扱いにくい性格だったようです。
現代風に言うと、深夜にSNSに長文を書き込んでしまうような、そんな繊細なタイプだったのかもしれません。
定家の家族と兄弟差別
定家の家族と言えばまずは父である藤原俊成が挙げられますが、2人の妻やその子供たち、孫もいました。
『明月記』には彼らについての記述もかなり多いようで、とても興味深かったです。
家族との関係性に定家の人柄がよく表れていることもわかりました。
優れた父、人当たりも良く気が利く妻、そして定家の才能を引き継ぎ彼よりも早くに出世した息子、そして令和の時代まで続いている和歌の家を残した孫。
定家自身にも優れた才能があったとはいえ周りからの支えが無ければ、彼は今ほど歴史に名前を残すこともなかったのではないかと思います。
さまざまな人とのかかわり
日本史に詳しい方が定家の生きた時代とその世界を見てみると、関わりがありそうな人物は簡単に予測できるのかもしれません。
ただ私は日本史素人なのでその辺りには疎く、本を読み進めていくにつれて、定家はあの人やこの人とも交流があったのだと知ることができました。
そもそも『愚管抄』を書いた青蓮院の慈円が九条家の人間であることも知らずにいたので(九条家は定家が仕えた家)、彼らと定家との関係性だけでなく、それらの人々自体のことも知ることができて面白かったです。
さいごに
現代ではさまざまな分野で研究が進み、歴史上の人物についてのまとめられた書籍もたくさん出版されています。
たった一冊の本を読めば0から10まで教えてくれるような読みやすい本は非常に親切ですが、個人的にはこういった文化的価値のある国の宝を自分なりに読解されていたり、考察されている本を読む方が好きです。
文学などの研究においては時代背景だけではなく作者を知ることも大切なことですので、今後は定家の歌に対して、今までとはまた違った見方が出来るような気がしています。