今回は明智光秀ゆかりの地についての第二弾です。
(第一弾は以下をどうぞ)
さて、みなさんにとっての明智光秀ゆかりの地といえばどちらでしょうか?
個人的には、丹波平定の際に拠点となった、丹波亀山城跡のある亀山市のイメージが強いです。
そんな丹波亀山城から移築されたといわれている建物が、京都市内、屈指の観光地である嵐山・嵯峨野エリアに存在しています。
刀剣ゆかりの地としても有名な大覚寺
近年はとりわけ刀剣ファンに人気のある大覚寺。
実は上の写真にもその一部が写っているのですが、ご存知の方もいらっしゃるでしょうか?
大覚寺には、丹波亀山城から移築されたといわれる明智門と明智陣屋が存在する
亀山城は本能寺の変が起こった当時より、わずか二年ほど前に建てられた城だといいます。
ということは明智光秀が亀山城に滞在した期間は、そう長くはなかったということになりますね。
そんな亀山城からこの大覚寺に移築されたといわれているのが、明智門と明智陣屋という建造物です。
明智門とは、大覚寺の表門(拝観者入口)のすぐお隣にある白い門のことを指します。
奥に見えるのが明智陣屋です。
大覚寺の公式ホームページに掲載のある大覚寺の境内図を見てみると、明智陣屋といわれる建物は、大覚寺にある宸殿などの他の建物に比べると比較的大きく見えます。
それは拝観受付や式台玄関がある、いわゆる現在の大覚寺の拝観者入口の辺りも、明智陣屋という建造物の一部であるからです。
上の写真で見てみるとわかりやすいかもしれません。
左の建物(一般観光客は進入不可)も右の建物(式台玄関)も、真ん中の拝観入口もすべて明智陣屋という一つの建造物に属しています。
明智門の下には立札もありました。
こちらは引きで見た明智門の全体のすがたです。
城郭建築に関してまったく知識がないのですが、明智門は長屋門ということで良いのでしょうか?
引きで見るとよりその白さが際立ちますね。
一番の特徴はやはりこの出窓でしょうか。
長屋門の特徴は門扉の両側に空間が設けられていること。
一般的には、従者や使用人のための居住空間になっていたり納屋として使われていたようです。
亀山城から移築されたと伝わるこの明智門の両側の空間は、一体どんな方がどんな目的で使っていたのか気になりますね。
さいごに
戦国武将ゆかりの地が沢山存在するように、戦国武将ゆかりの城もまたたくさん存在します。
再建されたことでその形を残しているもの、跡地としてその痕跡が残っているだけのもの。
前者は城郭ファンにはたまらないでしょうし、後者は城郭ファンのみならず、発掘に携わる方々の心をも惹きつけることでしょう。
大覚寺のこの明智門と明智陣屋は、亀山城の遺構だという歴史が寺伝として残っているだけだとされているため、明確な記録がないならば信憑性が低いと考える人もいるようです。
いつかこの寺伝を裏付ける、確たる証拠が見つかったら面白いですね。